昭和の時代から、桜島桟橋近くの滑川通り沿いは、「滑川市場の朝市」として大層賑わい、現在でも採れたての野菜や水揚げされたばかりの鮮魚などを売る露天が並ぶ。
昭和25年創業のフルーツポート山元青果も、「滑川市場の朝市」を構成する一果物専門店として、シーサイド小川市場館専門店街の中にすっぽりおさまりはしたものの、昔から続く朝市の伝統を継承しながら、早朝7時には営業を開始し、夜7時まで続く。

創業者の故山元武雄さんが桜島フェリーポート近くにあった旧店舗で青果専門店山元青果を開業。その後、長男の忠久さんが10年くらい2代目社長を務めた後、別の会社を起こして家業を離れ、義理の父でもある武雄さんが73歳で他界した昭和57年より、娘婿の現店主田中俊美さんが3代目の社長として活躍してきた。
田中さんは、山元青果を継ぐ前の5年間くらいは、飲食業のサラリーマンだったという。
志布志市松山町で8人兄弟の末っ子として生まれた田中さんは、生家が農業を営み、跡を継いだ兄さんがハウスみかんの生産者でもあり、新妻の実家の青果業を継ぐことになっても、そんなに違和感は覚えなかったと当時を振り返る。
創業者の義理の父・武雄さんから商いの仕方を教わったのは僅か3ヶ月くらいだったようで、当時は競りの仕方など全く分からず、市場でともに働く組合の青年部の仲間たちから競りの技術も教わったと語る田中さん。
「昔はもっと早く、朝6時ころから店を開け、朝市のお客様で賑わっていましたね。また当時は、トラックに果物などを満載し、隼人や加治木まで配達に行ったものでした!」と店主田中さんは山元青果を継いだころを懐かしむ。
現在、歯科の勤務医となっているご子息が生まれたときから青果業に飛び込んで、すでに29年。「一人息子の年と同じですから、青果業を商ってきた年月だけは、間違えずに言えます!」と、田中さんは笑う。
山元青果の3代目として青果業を継ぐきっかけとなり、一緒に苦労して山元青果を盛り上げてきた先の奥様が急な病に倒れて先立ったあとの5年間は、寂しく辛い時間を過ごしたと田中さんは語る。
友人の勧めで現在の6歳下の奥様と再婚した田中さんは、組合主催の春・秋のバスツアーなど、いつも奥様と共に参加し、貸し切りのバス内では、お二人で巧みなカラオケを熱唱!
ツアーバス内での奥様の並外れた歌唱力を筆者も不思議に思いそっと尋ねると、何と奥様は伴奏なしのアカペラのホールで独唱した経験もあるセミプロの声楽家だった。
参加者は仲睦まじきお二人に、心からの拍手とエールを送り、いつもバス内は和やかな雰囲気に包まれる。
田中さんは、朝4時に起床し、昼間30分から1時間くらい店内で仮眠し、夜10時に就寝する毎日。
小売のほか、昔ながらの姶良方面ほかの他小売店への卸が半々で、先立った前妻のお姉さんが近くの滑川市場朝市内で営む青果店にも、毎朝中央卸売市場で仕入れた商品を卸しているとのこと。
昔は、鹿児島市の台所として、鮮魚を養殖し、生鮮野菜や果物を生産する桜島と近郊野菜の産地として有名な吉野台地から一番近い「滑川市場の朝市」に、姶良・大口などの各地方から贈答用の高級品の仕入れに通う小売店も多かったようだ。
しかし現在では、地方にも大型のスーパーが開店し、滑川市場界隈にも大型量販店が出店を競い、加えて県庁の移転などで、往年の滑川市場の朝市の元気と人通りが大きく減少傾向にあることは否めない。
「私どもの切なる希望として、鹿児島駅の操車場跡地がしっかりと再開発されれば、往年の滑川市場の朝市の賑わいも必ず戻ってくると信じています!」と田中さんはきっぱり。
「鹿児島特産の桜島小みかんや、ポンカン、タンカン、温州みかんなど、鹿児島が誇る本当に美味しい柑橘類には特にこだわり、力を入れて来ました」と田中さん。
「創業者が話していたように、『本当に美味しい果物をお客様に提供することが、店の信用を築く!』ことを山元青果の理念として、3代目の私も大切にしています」と田中さんは語る。
田中さんの趣味は、土日に開催されるネット競馬で、田中さんの元気のもとは、毎晩楽しむビール1本と焼酎2杯の晩酌とか。
昭和31年生まれの男盛りの田中社長の益々のご活躍に期待したいものです!