毎日、午後2時半にはお店が閉まるというので、午前中から買い物客が列を成し、店主の威勢のいい掛け声とキメ細かなお勧めのコミュニケーションで、驚くほど賑わう青果店「田舎市場」。
「今は、この滑川通り沿いの各店も、昔の元気のいい朝市の格好にはなってないですよね!」と語る店主・安留正治さんは、午後2時半を過ぎると奥様共々、お得意先へ納め物に出発する毎日。

一昔前の昭和時代には、この滑川通り沿いは、「滑川市場」として大層賑わったところ。現在でも、桜島桟橋近くの滑川通りで、取れたての野菜や水揚げされたばかりの魚などを売る露天が並ぶ。
終戦直後、連合国に占領されて、故郷に帰れない沖縄や奄美大島の人たちが衣料品や食料品を売り始めたのが、滑川市場の始まりのよう。その後、吉野方面から来た人々が、野菜や花を売り始め、連日多くの買い物客で賑わったとのこと。

昭和20年代には滑川(現在は通りの下を流れている)沿いに並ぶ屋台には多くの人が訪れ、この周辺は天文館より賑わったようで、現在の青果店「田舎市場」の午前からの賑わいは、往年の滑川通り一帯に広がる滑川市場の朝市が蘇ったような雰囲気。
青果店「田舎市場」は、滑川通りでも、電車どおりの滑川交差点に一番近いところに店舗を構え、早朝の中央卸売青果市場に夫婦で出かけ、飛び切りの極上青果物を仕入れたあと、朝8時ころから開店し、店頭での小売を開始。
昭和28年、加治木で生まれたという店主の安留正治さんは、一見、かごっまの酒豪のような元気溢れる顔立ち。でも、全く酒が飲めない下戸とか。
まだ外は真っ暗の早朝の中央卸売青果市場で、正治さんは、運搬用の台車を押しながら、「今日は売る品物が、ひとっも(一つも)無か!」とぼやきながらも、飛び切り上物青果物を探し回り、朝7時からの競りにも元気溢れる市場の男として参加。
「夫婦で働き始めて17年くらい!」と語る奥様も、多くの荷を積んだ台車を押しながら、婦唱夫随?かどうかは定かでありませんが、仕入れの合間で、夫婦で意見交換をしつつ、飛び切り美味しい青果物の仕入れに精を出す。

店主・正治さんは青果業を始める前、腕利きの寿司職人だったとか。正治さんは中学を卒業後、大阪・京都の「かに道楽」などで永年料理人として修業を積み、帰鹿後も、加治木や国分、鹿児島市内などの寿司店で活躍し、計28年間も腕を磨き上げた、たたき上げの板前さんだった。
転機が訪れたのは、平成5年8月6日、いわゆる「8・6水害」と呼ばれる大水害が鹿児島市内及び近郊を襲い、当時、鹿児島市内の寿司店に勤めていた正治さんは、国道10号線沿いの竜ヶ水・花倉(けくら)地区で起きた大規模土石流で、加治木にある自宅に帰れなくなり、旧滑川市場界隈に宿泊。
宿の近辺をしばらく歩くうちに「ここで、八百屋や果物店を商えば、本当にいいかも!」と直感。子供二人もようやく親の手を離れたころで、きっぱりと寿司職人の道を捨てて、新しく青果商の道を歩むことを決意。

「僅かひと月後の平成5年9月には、もう滑川交差点近くで青果小売業を始めていました!」と語る店主・正治さんは、店頭で数珠つなぎに並ぶお客様の細かい好みをすべて承知していて、日々仕入れてくる極上青果物を、「奥さん!今日は、奥さんが好きな○○が入ったよ!」と矢継ぎ早に勧める様は、やはり寿司職人が握り寿司を勧めるあの光景とダブる。
やはり、商いは「気合が一番!」なのか、「午前の賑わいを、そのまま午後に回るころまで、いかに引っ張るかが勝負どころ!」と、店主・正治さん。
元気な市場の男そのものの店主・正治さんの元気の源とは、耳を疑いそうな話ですが、何と「仕事を終えたら早くウチに帰って、伝書鳩の飼育と鑑賞!?」だとか。
お店のモットーはと問えば、「あたいが(自分・店)が儲かっちゃいかんと!お客っさぁが儲からんといかんと!」と店主・正治さんは豪快に言い切る。
「お客様が本当に得をし、儲かる!」ことを心掛けて商いにチャレンジする店主・正治さんと奥様が、「田舎市場」の気合と乗りと元気で、鹿児島産の食材を誇る往年の『滑川市場の朝市』の賑わいを、滑川通り全域で本気で復活させてほしいものです。
安留さんご夫婦の今後の益々のご活躍に、乞うご期待!!